2014年6月28日土曜日

2014 5/2 『千川上水跡』


説明板より…
かつてここを流れていた千川上水は江戸六上水の一つで、1696年に幕府の命により河村瑞賢が設計したといわれ、千川太兵衛・徳兵衛の請負によって造られたものである。
全長は約28kmに及び、保谷村で玉川上水から分流し、石神井村~下練馬村~長崎村などを経て、板橋町~巣鴨町より下谷、浅草に達していた。
この上水は、湯島聖堂、上野東叡山、小石川白山御殿、浅草寺御殿などに給水することを目的とし、余水は流域の武家・寺社・町家の飲料水として使われた。
1707年には、流域の村々の嘆願により、農業用水としての利用が認められるようになり、区内では長崎・池袋・巣鴨の各村がその恩恵を受けた。
千川上水は1722年に江戸への給水が中止され、1779年に再開されたが、1786年には上水としての利用は廃止された。
その間、流域の灌漑用水としての利用は続き、明治期以降は工場の産業用水としても利用された。
また、入水の堤には千数百本の桜が植えられ、花見の名所としてにぎわっていたが、戦後の都市化の進行とともに、区内では昭和28年から34年にかけて暗渠化工事が行われ、桜のほとんどが伐採され、流域の景観は一変した。
1989年、上水跡に区立千川親水公園が開設され、近隣住民の憩いの場となっている。

暗渠前の写真、水量もだいぶ豊富だったことがわかる。
下流域は千川上水の面影はほぼないけど、この地域は面影を少し残している。
整備された上水跡、野球少年らの声が響く活気のある場所として人々のために生きている。

説明板より…
この庚申塔は千川上水ができた時代より保存されておりましたが、昭和43年頃まで屋根付きの堂に五基安置され地元住民の素朴な信仰の対象となって親しまれたものですが、時代の流れに従って現在では昔の面影はなく、上水も暗渠になり庚申塔付近一帯が宅地開発となり、その時に姿を消失しました。
地域住民は庚申塔の行方を捜索しておりました昭和52年3月、練馬区の奥地北大泉の山林中に捨てられてあるのを練馬区民が発見し調査の結果、区役所の係官が重要文化財であることを確認し、地元に連絡され地元有志及び町会長が引き取り、御堂を建立し、文化財保護と供養に専念しております。

宅地開発にともなって邪魔と判断した愚かな会社や人々が住民の目を盗んでそっと運びだして山林に投棄したのでしょうか。
人々の想いが宿っているものを粗末にあつかった彼らの行末は想像に難くない。

桜の名所だった千川上水、その付近にあるその一部かもしれない桜が今年もきれいに咲き乱れておりました。
桜がみごとだった我が母校のひとつは、新しい年度を迎えることをなく閉校した。
今でもはっきり憶えている入学式、ソメイヨシノの咲き乱れる佳日。
遠くの親戚より近くの他人という、そのとおりの乳児幼少期だった自分。
1歳の頃にシスターに預けられその後施設に入り、他者に育てられたようなものだった…この付近の人々には心から感謝している。
家族と他者の愛情を深くる感じ大好きな地域です。

こうしてかつてお世話になった地域をぷらっとランニングしてまわってお参りもしたり、そして新たな発見をしたり、地域史を知ったりして土地や町の成り立ちがよくわかる。

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