2014年6月29日日曜日
2013 5/28 『迷子センター』
東京駅八重洲口の前は外堀通り、
外堀通りを北上していくと日本銀行、
そのちょい手前に一石橋迷子しらせ石標がある。
作られたのは江戸後期、安政4年(1857年)。
ちょうどその頃、ここ日本橋界隈は商業、流通、経済、情報の
中心地として発展しとても栄えていて、多くの人々が訪れていた。
重要なのは運河、舟で遠方から荷を運ぶため。
そうなるといつの時代もどの場所でも、
人がおおく集るところには迷子がじゃんじゃか発生する。
夏の海岸、プールで親からはぐれたチビがガン泣きして保護されるシーン
をみるが、当時もまた同じだったということ。
この石標は当時の情報掲示板、今でいう迷子センター的なものとして
機能していた。
石標右側にみづらいけども、
<志らする方>と彫ってあって、上がくぼんでいる。
左側には<たずぬる方>と彫ってある。
右側に迷子の特徴などを書いた紙をはって、情報を求め、
左側には迷子を知っている人は特徴などを紙に書いてはる。
そうやって情報をあつめて探していたっうこと。
同じ迷子しらせ石標は浅草寺にもあったというのは、(復元されたよう)
その当時浅草もたいへんに栄えていたっていうこと、花街がありますしね。
情報伝達手段が乏しい当時はそれはそれでたいへんだったのだろうなと。
156年前に作られた迷子しらせ石標、おもしろいものです。
...そう、安政といえば、この石標が作られる3年前に、
安政東海地震、32時間後に安政南海地震がたてつづけに起きた。
そして1年後に安政江戸地震が起きた。
安政三大地震といわれている地震で、いわゆる首都直下型地震。
日本全国揺れに揺れて甚大な被害が発生した。
津波が各地を襲い、津波の被害を忘れてはならぬ、子孫に伝えてゆく目的で
各地に記念碑がたてられた。
自然災害にも遭われて荒れて、かつ、この時から10年くらいの間に
大政奉還など明治維新もあり、さまざまなことが激動した。
その当時の先人達はたいへんなことを経験された。
日本の地殻は平安時代、869年の貞観地震の時に似ていると言われているが、
この江戸後期安政の状態にも近づいているように思える。
政治の世界でもある部分そうなのかもしれない。
政権がかわったり、さまざま変わらなかったり、
それは悪しきモノがねっとりと
まとわりついているからなのだろうか。
核エネルギー政策をすすめてきたのならば、
きっちりと後処理をしてもらいたいが、できるのだろか?
時代は違えど、その時その時生きた人々の教え、知恵を有効に。
携帯ももちろんポケベルも普及していない時代は、
連絡の手段がたいへんだったですよね。
待ち合わせ場所、待ち人来ず2-3時間、そんなこともあった。
先に行ってますの文字、駅の掲示板...もう見ませんね。
商業施設での迷子のアナウンスもだいぶ減ったような気がします、携帯の普及。
と、外堀通りをペダルふんでそう思いながら…
そう、
道に詳しい方はご存知のとおり、
外堀通りは別名環状2号線ともいう。
環状1号線は内堀通り、いわゆる皇居ランナーが走っている道。
(竹橋から九段に一部それるが)
ペダルふんでて見つけた東京都指定有形文化財の迷子センターでした。
28.30 km 1時間57分33秒 自転車で走りました。14.4 km/h (04’09 /km
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