2014年6月29日日曜日
2013 4/8 『幕末を巡って』
前にも少しふれた徳川慶喜巣鴨屋敷跡の碑。
線路をはさんで2つロータリーがあって、
都心方面側のロータリー、白山通りをはさんで向い側。
...?
皇居からきたら、線路をこえる手前の左側。
ま、素通り...気がつかないですね。
興味がない人が多いかもしれないですかね。
ココから線路をこえると左右にピンクな一角があります。
桜のピンクと相まってそれは華やかなことでしょう、この時期は。
その先、旧白山通りをすすんで、
白山をまがって団子坂へ、
さがってあがって谷中霊園にぶつかり、
上野桜木はすぐそこ。
小道をぬけると上野に到着。
上野にはかの有名な西郷隆盛像があります。
その西郷さん像の横に
彰義隊のお墓があります。
徳川慶喜を守るために…
江戸の治安を…
大義を彰(あきら)かにするって意味、
そう結成された彰義隊。
西郷さんのところには多くの人がいますが、
彰義隊の墓所にはほとんど人がいません。
将軍警護のため、意思を同じくする幕臣らがあつまって彰義隊が結成され、
頭取に渋沢成一郎が就任。
渋沢成一郎は、
のちの日本資本主義の父といわれる実業家の渋沢栄一のいとこ。
結成当初は数十人だったようですが、
たくさんの浪人、武士らがあつまり、
数千?の大所帯となったようで。
上野戦争で彰義隊はわずか半日で明治新政府軍に壊滅されました。
今の本郷台、東大の敷地にアームストロング砲を配備し、
見晴らしがよい本郷台から下にある不忍池を越えて、
上野寛永寺にいる彰義隊へと打ち込んだそうで、
それは圧倒的な強さだったとのこと。
上野戦争が終わっても賊軍である彰義隊の遺体は放置されたと。
その惨状をみかねた南千住にある円通寺の和尚が
官軍に埋葬の許可を願いでて、
それが認められて埋葬されたと。
敵だろうが、死ねばみな仏、
100~300弱の遺体を埋葬されたそうで。
江戸を守ろうとした彼ら、
しかし大将はおらず…
大義の為に決死で。
桜の上野、
強風あれまくる中、
葉桜になっていたこの日、
まだまだ花見の宴は続いておりました。
上野動物園や博物館、
そのほかたくさんのみどころ
楽しめる場所がありますが、
この彰義隊にも目をむけて…
上野をあとにする。
めざすは諏訪台通り方面、谷中銀座夕やけだんだんのところへ。
敗走した彰義隊の一部はすぐ近くにある
谷中の経王寺に潜んだ。
彰義隊士をかくまったために、
新政府軍の攻撃をうけたと。
その銃弾の痕は今も山門のいたるところにある。
....145年前のこと。
行きは爆弾低気圧のはんぱない向かい風、 (05’40-50 /kmくらい)
帰りは追い風、
22℃くらいのよい気候、
袖なしでちょうど、とっても気持ちがよかった。
顔と腕はライトグレーな塩まみれ。
ビールが一段とうまかった。
15.4km 1:20’31” (05’13 /km)
またあちこち走って巡ってみようと思う。
次は品川あたりがいいかな。
今はたいへんはたいへんだけども、30km気持ちよく
あちこち走れるよになったように、
気持ちよくさらに40-50km走れればなぁ、それも次の目標…って
そんなことははたしてできるのだろうか??
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