2014年6月28日土曜日

2014 4/21 『徳川慶喜 第六天町 屋敷跡』


文京区の小日向(春日2丁目)に徳川慶喜一家がかつて暮らしていた屋敷跡がある。

山手線が開通してうるさくなるからと、巣鴨から水戸徳川家屋敷跡(現 東京ドーム、後楽園一帯)に近いこの地を選んで引っ越してきたという。

敷地は台地と低地にまたがる傾斜を持つ。
低地の先には神田川が流れている。
今井坂(新坂)をのぼっていくと碑があって、敷地内には大銀杏の樹が威風堂々とたっている。
屋敷があった頃、ここは玄関だったという。
下にあるかつての屋敷の写真に写っている樹がこの大銀杏だろう。
歴史や町の変貌をみてきた銀杏…
屋敷のとなりには丸ノ内線がひっきりなしに通っている。
開通にあたって台地を切り通したのだろう。
結局、うるさい電車にご縁があったということで。

まだあまり建物もなかった明治大正昭和初期…
傾斜を持つ敷地に建つ屋敷から、台地から低地にかけてすごく壮大な景色がみられたことだろう。
台地の上に住んで、向こうの下には神田川がさらさらと、時には荒々しく流れている。

慶喜が引っ越してくる前に、お隣には松平容保が住まわれていたという。
こちらが詳しい。
慶喜も容保も互いに苦労し、第六天町で終焉と…

と、写真を撮りまくっていたところに、
セレブにちがいない若い夫人が連れた飼い主の言うことをまったくきかずに全力でリードを引っぱるミニチュアダックスに威嚇されて…「◯◯ちゃん、だめでしょぉ~」

写真が趣味だった慶喜は、農村地区だった板橋にもよく撮りにきていた。
石神井川、収穫された大根、用水路で洗っている写真や
日曜寺というお寺さんの写真も撮っているが、山門前を通る道は和宮が中山道をとおって徳川家茂のところに降嫁する際に、中山道沿いに生い茂っていた不吉な“縁切榎”を迂回したルートで。また紹介したいと思う。

と、慶喜の記事をちょくちょく書いているけど、
慶喜が好きということではなくて、
慶喜が行動していた地域をたまたまよく通っているから親近感があって。


しかし、ここらへんの地域は特に坂だらけで昔も今も移動が大変ですね。

…足首をグネって回復をまつこと2週間。
95%回復といったところか、痛みはほぼないけど違和感はあるから…
18日ぶりにしっかり走れて、かなり寒かったけど気持ちが良かった

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