台東区谷中に全生庵に山岡鉄舟の墓がある。
鉄舟、身長190cmm、体重は100kgというのだからその当時としては大男だ。
こちらから引用
今から147年前、駿府城下にて山岡鉄舟(てっしゅう)が西郷隆盛と会った。
江戸無血開城へ向け、下交渉を行なった日である。
幕末、上方における鳥羽伏見の戦いは、新政府軍が錦の御旗を掲げたことにより、旧幕府軍に圧勝し、その拠点である江戸を一気に攻め潰そうと東へ進軍していた。
旧幕府軍の首魁・徳川慶喜はすでに上野寛永寺で謹慎していたが、その恭順の意を新政府軍は受け入れず、武力討伐で決しようとしていたのだ。
幕臣の勝海舟は江戸無血開城を決意して、江戸攻撃を思いとどまらせるための策をめぐらす。
結果、幕臣らは高橋泥舟(でいしゅう)を新政府軍のもとへ派遣し、慶喜の恭順の意を改めて伝えようとした。
しかし泥舟は慶喜の身辺警護のために動けず、代わって義弟の山岡鉄舟をその役目に推薦、鉄舟を慶喜に謁見させて派遣が決定された。
このとき、刀がないほど困窮していた鉄舟は親友の関口艮輔に大小を借りて官軍の陣営に向かった。
3月6日、勝海舟から西郷に宛てた書面を携えた山岡は駿府への道を急いだ。
途中幾度なく新政府軍の誰何を受けたが、薩摩藩士と偽って潜り抜けるも、清水の手前の由比の街道は官軍の関所が出来ていて通ることができなくなっていた為に、最後の手段として街道一の大親分清水の次郎長の助けを借りる事になった。
駿府城下に着き西郷と面会を得たのは、翌々3月9日のことだ。
鉄舟は「朝敵・徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎、大総督府へ罷り通る」と大声で叫び通ったという。
すでに江戸城進撃の予定は3月15日と決定していたが、西郷は勝からの使者と聞いて山岡との会談に応じた。
西郷は江戸城総攻撃の回避条件として7つの条件を出した。
うち第1条は「徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること」だった。
山岡は7ヶ条のうち6つは受け入れるが、
第1条のみは絶対に受けられないとして断固拒否。問答が続いたが、山岡は「もし立場を入れ替え西郷殿が島津の殿様を他藩に預けろと言われたら承知するか?」と詰問。
これに西郷も理解を示しひとまずは保留として、江戸へ先乗りして海舟との会見に応じることを決めた。
そして、江戸城総攻撃予定日のわずか2日前の3月13日から、いよいよ江戸開城交渉が田町(東京都港区)の薩摩藩江戸藩邸において行なわれたのである。
江戸無血開城の陰の立役者、鉄舟について後に西郷は、こう語っている。
「あんな生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、というような男はどうにも始末に困る。だがそいういう男でなくてはともに天下の大事は語ることができない」
勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟、「幕末の三舟」と呼ばれる彼らなくして江戸無血開城はなかったかもしれない。
そして、鉄舟を無事に西郷の元に送り届けたヤクザ清水の次郎長の行動も大きく関わっていたのだ。
死ぬ思いで西郷の元へとやってきて、薩長、徳川だけではなく、日本の将来を必死に思って道理を説いた山岡鉄舟。
西郷がどうやって来たかと問うと、官軍の陣営を突破して「歩いて来た」と言った鉄舟に西郷は呆れたという。
無骨で真摯で熱い侍 、人としてとても好きだ。
本郷・谷中・上野・浅草 Running 20.24km 2:02'16''
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