2015年2月25日水曜日

2015 2/17 『大円寺 高島秋帆の墓』

建国記念の日、新宿や皇居方面をさけて上野へランニング。

日光御成街道(本郷通り)と言門通りの交差点に高島秋帆の墓のサインを偶然にも発見し、探してみた。
でもあれだな、何十回どころじゃいほど通っている交差点の歩道だけど、初めて気がついた。 自分のように寺や地域史、歴史人に関心がある者でも気がつかなかったから、そこを通る人々にはその存在はなかなか分らないかもしれない。
ここらへんは寺がとても多く、谷中あたりもとても多い。
その多くはたび重なる江戸の火災や震災で移転してきたのではなかろうか。

本郷通りから小道を入ってすぐに大円寺を発見。
お参りして、墓地がある区画へ。
一番奥に国指定史跡 高島秋帆の墓がありました。
もう150年も経つとのこと。いや、わずか150年と言うところか。

高島さんってだれだ?

過去記事引用

板橋区の北部に高島平という地域がある。
その高島平はかつて徳丸ヶ原といわれていた湿地帯、氾濫する荒川によってしょっちゅうびっちょびちょだったよう。
長崎の町役人で砲術家だった高島秋帆(たかしましゅうはん)はオランダ人らを通じて、洋式砲術を学んでいたので日本砲術と西洋砲術の格差を知っていた。
高島秋帆はアヘン戦争で清がイギリスに敗北したことに大きな衝撃を受け、
日本を防衛するために洋式砲術を採用すべきだと国防の重要性を訴えた意見書を幕府に提出。
幕府の命令で江戸にやってきて、現 板橋区赤塚にある松月院に本陣をかまえ、眼下に広がる徳丸ヶ原(高島平)で歩砲2隊の演習と馬上発射と大砲の実弾射撃という洋式の砲術演習を行った。
幕府ははじめての洋式火砲の威力におどろき、この演習は当時の国際情勢からも話題をよんで、幕府は多くの大名や鉄砲方にも見学をさせている。
勝海舟などもこの様子をコッソリ見たと記している。
これにより幕府の高島流砲術採用が決まり、幕臣らに高島流砲術をおしえて長崎に帰ったと。
幕府から重用されてその功績を妬んだ幕府町奉行の鳥居耀蔵(とりいようぞう)は周りの人とグルになって、高島秋帆は 「密貿易をしている」と謀反の罪を着させて、幕府に訴え、逮捕・投獄されてしまう。
洋式の砲術の必要性を感じている人も多く、幽閉先では諸藩は秘密裏に高島秋帆に接触し教わっていたという。
幽閉されること10年、ペリー来航による社会情勢の変化によって赦免されて出獄し、高島秋帆はふたたび幕府に対して、このままではアメリカとは戦えないと意見書を提出し、その後幕府の砲術訓練の指導に尽力した。
坂本龍馬も高島流砲術を学び、ついこの間、坂本竜馬の血判や直筆の署名などが記された、高島流砲術家への 入門時の起請文が発見されたばかりだ。
起請文は、行いにうそや偽りのないことを神仏に宣誓する文書。
この書で竜馬は、入門後に学んだことを外部に漏らさないことや、新しい流派をつくらないことを誓約しており、巻物には竜馬の他、幕末に尊王攘夷運動を行った土佐勤王党の武市半平太や岡田以蔵ら、216人分の名前も記されている。

その演習で幕府は洋式の砲術におどろき採用したわけだが、幕府が崩壊したあと明治新政府はそのまま踏襲し、のちの日本陸軍創設の元となった。
本陣を構えていた松月院が日本陸軍発祥の地ともいわれている。

現在の板橋区高島平は自分にとってもうひとつの地元で、元は徳丸が原という地名だったが、高島秋帆の功績を讃え、高島平と改称したと。

....高島秋帆の功績は我が国にとってとても大きなものだ。

敬意を表して辞去。

最後の将軍 徳川慶喜、幕臣 榎本武揚、高島秋帆、彼らの墓所がそれぞれ近くにあるのも縁なのだろう。

過去記事
幕末を巡って
散歩JOG
徳川慶喜 第六天町 屋敷跡
吉祥寺 榎本武揚の墓
大円寺 高島秋帆の墓
明暦の大火と本妙寺 遠山金四郎景元の墓
幕末の幕臣 山岡鉄舟の墓

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