2016年2月23日火曜日

2016 2/22 『皇居』

日曜日の午後、また皇居へ。混んでた....
厚着の人もとても薄着の人も混在していた。
スピードをあげて走る人は薄着。
自分のような1kmあたり6分ペースがちょうどいいゆっくり目な者には2枚重ねて、ランニングベストでちょうどいいような気候。
先週は23℃でノースリーブとベストで大汗かいた...
ベストのいいところは、大きめのポッケがついているので、大きめの携帯やミニ財布に鍵などの貴重品、そしてティッシュなんかを収納できるからとても便利。
近くに感じるのと走った後に飲み食いしにいくこともないし、ランニングステーションを使う機会がないので知らないけど....重ね着してもう一枚羽織って、自転車を30分ゆっくりこいで行くことがほとんど。
冬場は帰りが少し寒いけど、ペダリングで平気。
夏場は手足の汗を流して、そのまんま帰るか、上だけ着替えるか。
信号がないのでスピードが出しやすいから皇居にたまに行くようなものだけど、帰りに銀座や神田、上野に寄ってついでにササッと買い物ができるのもいいもので。
平川門から台地へと上り坂が続くので、1kmあたり5分30秒くらいのペースでスタートして、1kmあたり5分前後で走り、1周終わってまた上り坂で1kmあたり5分30秒前後に落ちる。
平川門の平川とは大昔の神田川のことで、かつてのこの場所は入り江でちょうど平川(古神田川)が海に注いでいた。
上り坂の途中、北詰門の向こうには天守閣跡があり、旧本丸西貝塚遺跡がある。工事の際に土の中から貝が見つかり、どこから運んで来たか調べるとすぐそこだということで、調査したら貝塚が見つかったという。
上がりきるとそこは旗本や御家人の町、そして半蔵門、ご存知の徳川家康の重臣 服部半蔵が住んでいた場所だ。江戸城の裏門にあたって、有事の際には台地の上から甲州街道を使って脱出するために、その護衛として半蔵が住んでいた。台地の上、尾根に沿って街道が通っているので、水はけも良いから脱出しやすいという理由もあるかと思う。
忍者は武士、今でいうところの契約社員のような立場で、必要な時にその期間だけ情報操作などの生業をする。そのために他の職業も持って生活をしていたという。ある忍者は忍者兼和菓子屋として生活していて、天下泰平、時の流れで忍者という職業はなくなるも、子孫は今も和菓子を作っている。どこの和菓子屋だったか失念...手土産に良い。

目の前のランナー、ブッ!ブッ!と大きい屁をこく...
全身GYAKUSOUを身にまとったランナーもたまにみかけ...
asicsの女性コーチ、みかけるたびにお顔と脚のギャップに驚きつつ...

また台地をスピードにのって下っていると、まぁ交機に捕まる車が多いことなんの。何車線もあるから車線変更の違反かな。
下りきるとそこは桜田門、大老 井伊直弼が銃と刀で襲われて亡くなった場所。その銃は井伊直弼と対抗していた水戸徳川家 徳川斉昭が作らせたものではないかと言われている。
長い直線、観光客らをさけて、2kmほどひたすら走って平川門。

低地から台地への坂がなければ、10kmを50分切れていると思うが。

江戸城、家康が入る前は太田道灌が築城した平山城。
太田道灌はのどかな農村地帯だった豊島氏が支配していたトコロを荒らした武将、戦いに負けた豊島氏本宗家は滅亡してしまった。
豊島氏が支配していた地域に郷土愛がある方は太田道灌をよく思っていない人もいるそうだ。

そんな江戸城の歴史を伝えているインフォの足元には、これは南天だろうか.....赤い実がたくさんある。
難が転ずる。
ストレッチをして水分補強してすこし休憩、寒いのでとっととあとにして。
上野御徒町に寄るも激こみ、ほぼ中国語しか聞こえなかったような。
御徒町は江戸時代、馬に乗らない=歩く下級武士、御徒(徒士 かち)が住んでいた地域。
台地の上は旗本・御家人が住み、江戸城にも比較的近い低地の御徒町には下級武士が住んで、幕府に仕えていた。
その名残は今も続き、旗本・御家人の町は山ノ手の高級住宅街 麹町や番町、上野近辺は下級武士や町人の町、侠客が発展させた町。

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