2015年12月24日木曜日

2015 12/24 『榎本武揚から緒方洪庵へ』

幕末が好きな人にはお馴染みの榎本武揚(幕末・明治の幕臣・政治家・子爵)の墓所は歴代の徳川将軍が日光に参拝するために整備された日光御成街道(本郷通り)に面した吉祥寺にある。場所は本駒込。
中央線の吉祥寺はこの吉祥寺が由来。
かつて水道橋にあった吉祥寺は明暦の大火でこの本駒込へと移転し、門前町の住人が現在の吉祥寺周辺を開拓し移り住み、愛着を持っていたので吉祥寺と名付けたという。

榎本武揚はなんとかなりのエリート。
語学に優れ、なんと七ヶ国語も話せたとも言われています。
さまざまな国をめぐり機械学から最新化学までありとあらゆることを学び、そして日本の未来に役立てようとした榎本。
しかし、当時将軍の徳川慶喜が大政奉還。
さらに薩長が倒幕をかかげ幕府を脅かしてゆきます。
その中の一人が黒田清隆でした。
黒田は西郷隆盛、大久保利通など幕末の志士が多く集まった下鍛冶屋町付近で生まれました。
西郷を兄と慕っていた黒田は旧幕府を追い込んでゆきます。
そしてたどり着いた蝦夷共和国で榎本武揚と黒田清隆は出会います。

旧幕府最後の砦、蝦夷共和国。フランス行使ブリュネのおかげで榎本率いる旧幕府軍は新政府軍との戦いに挑みます。
しかし、すでに旧幕府軍の生き残った数はのこりわずか…そのとき榎本はある行動に出ます。
それは榎本が肌身離さずもっていた海律全書です。
前頁オランダ語で書かれた本をなんと新政府軍に送ったのです。
「自分が死んでもこれからの日本のためにこれは必要だ」
しかしこれをみた新政府軍は驚きます。
これほどの学識をもった人をここで殺してしまうのは間違っているのでは・・・
そこで黒田清隆はござをしき、マグロやするめ、そして酒を用意し榎本武揚との会談に臨みます。
そして榎本武揚は自分を殺し、ほかの者を助けてほしいと黒田にお願いします。
「榎本さんこそこれからの時代に必要な人物。その命私がすくいもんそう」そして榎本は降伏を受け入れ江戸時代にピリオドがうたれたのです。

榎本は黒田のおかげで新政府の一員となります。
そして当時日本が抱えていた外交問題を得意な外国語で日本を救ったのです。
さらに黒田清隆が第2代総理大臣の座に上り詰めたとき支えたのはいくつもの大臣を歴任した榎本でした。
さらに明治32年には榎本の息子と黒田の娘が結婚。二人の交友は、ついに血縁関係にまで発展したのです。via
箱館戦争で五稜郭に入り新選組の土方歳三らと闘ったのは有名ですね。

吉祥寺にいた巨大なネコ...目があって呼ぶとやってきた。
かわいいのうかわいいのうといじくり倒していたら、顔に飛込もうとしてきた。
たぶん腹が相当減っていたのだろう。
しかしすごいボディだ。
ちなみに、吉祥寺には二宮尊徳のお墓もある。

後にして吉祥寺の近所にある高林寺へ、ここは緒方洪庵の墓所。

緒方洪庵:日本の武士・足守藩士、医師、蘭学者でもあります。大坂に適塾を開き、優秀な人材を多く育てました。
天然痘やコレラの治療に貢献し、日本の近代医学の祖といわれています。via
1838年、大坂に蘭学塾(適塾)を開いて、多くの門人を育てた。適塾からは明治に活躍した多くの人材(大村益次郎、福沢諭吉、佐野常民、橋本左内、大鳥圭介、長与専斎、高松凌雲、池田謙斎など)を輩出した。via

Running 11.64km 1時間08分39秒 (05'53 /km)

健康管理ランニング兼ねての寺巡りはおもしろい、特に武士の墓所巡りは。

0 件のコメント:

コメントを投稿