2015年5月26日火曜日

2015 5/8 『猿楽古代住居跡(代官山)』

代官山の真ん中、住宅街に猿楽古代住居跡公園がある。
かつて仕事の休憩でよく使った公園だ。

このあたり一帯は古代人が居住していたところであろうと推定されていました。
昭和52年1月、渋谷区教育委員会ではその調査を国学院大学考古学第一資料研究室に委託して発掘しました。
発掘作業を行っているうちに出土して来た土器は壺、甕(かめ)、高坏(たかつき)などの破片ばかりでしたが、この土器に付けられた模様からみると、久ヶ原式、弥生町式、前野町式に属し、それらが作られた時期は今から約2000年前の弥生時代で、これらの文化は南関東一帯にひろがっていました。
弥生時代というのは、生活の方法はその前の縄文時代と同じですが、現代人のように米を栽培して食べる習慣がはじまり、文化が進んだ時代といえます。
発掘を進めて行くと、いくつかの住居跡が発見されましたが、中には他の地域でみられる住居跡よりも大型で珍しいものが発掘されました。
区は昭和53年、樋口清之博士の指導により古代住居を復元しましたが、その後焼失したので、現在は住居跡の上を被覆し保存に努めています。

上物は燃えちゃったようで...

この高台の場所一帯に住んでいた弥生人は近くの目黒川や渋谷川へ漁に出かけ、貝や魚なども獲っていたのだろう。
今の町の姿からは想像もできない。
眼下には川が流れ、高台で眺望や陽当たりもよい場所は縄文人も古墳時代の人々も、大名もその後の権力者も好んで住んだように、人々の気持ちは太古の昔から変わっていないということだろう。

縄文時代から弥生時代、狩猟から稲作へと劇的に生活が変わっていった時代。
弥生時代後期には卑弥呼が邪馬台国を支配していたが、今でも邪馬台国がどこにあったかは不明。
吉野ヶ里の九州説か纏向遺跡(まきむくいせき)の近畿説かがクローズアップされているが、考古学者が考えるには、日本の成り立ちと中心は長い時代を経て中心は変わっていくのだという。
大陸との貿易が盛んだった筑紫時代(九州中心)からヤマト時代(近畿中心)に中心が移りゆく間におそらく近畿地方だろうがどこかに卑弥呼がいた場所(国)があったのだろうと。
京都の朝廷、織田信長や豊臣秀吉らの関西地方中心の時代から関東・江戸地方中心のアズマ時代(東京中心)へと中心が移っていった重なりあったその時代の移ろいと同じかもしれないと。

渋谷桜丘から代官山に抜ける裏道、代官山の住宅街の一角にこんな遺跡があるとは知らない人も多いかもしれない。
ヒルサイドテラス内には権力の象徴である古墳があるが、あまり知られていないかもしれない。
何千年に渡って権力者を魅了する町、それが代官山だ。

13.360 km   1時間19分44秒  走りました 10.1 km/h (05'58 /km)

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