2015年3月30日月曜日

2015 3/30 『音無川』



2015 3/24 『歩くこと走ることとコミュニケーション』

日曜日の朝メシを〆た後、歩いて明治神宮へ行こうと、いそいそと出発。
少し走ったりも入れて、汗をかきながらテクテクと。
歩く時にはたくさん会話をする、高齢になった時にはよりよいですね。

男と女では会話の流れや着地点が異なるので、家に♀友達らが遊びに来て、女子だくさんの輪に居ると、ポンポン飛んでゆくその会話や内容にほぼついて行けない。
まだ話し終わっていないうちにどんどん違う内容をかぶせてバンバン話が変わってゆく。
よくもまぁそんなに内容が変わるもんかねと。話を聞いているとけっこう人の言っていることを聞き流していたりもする。
「ちょっちょっちょ!まだ話が終わってないんだけど」と話を戻そうすることがとても多い。
男は問題解決をするために話すというが、女にとって会話はちがうのだ。
中には女子の輪に入って饒舌に話をすることができる男友達もいるし、話についていけて、なんなら相談にまでのってというか、悩みやグチ的なことを聞いていたりする。すごいなと思う。

私たちホモ・サピエンスが登場する前に生きていた先輩であるホモ・エルガステルはアフリカを飛び出して、肉を求めて大陸を歩きに歩いて大移動して世界各地に散って生きたという。
しかし、絶滅してしまった....身振り手振り、ウホウホッ!とかはできていたのだろうが、会話ができなかったことも滅んでしまった理由だ。
長い時を経て、私たちホモ・サピエンスが登場してアフリカを出て、歩いて移動して、たくさん会話することで生き残れ、70億人にまで増殖して今に至る。

幕末の志士ら、当時の人々もたくさん歩いて人とコミュニケーションをとってた。
坂本龍馬は33歳の生涯を終えるまでに、長崎と江戸を何往復も歩きに歩いて、その距離は1250kmで歩くと30日もかかったという。生涯では地球一周分だと。
歩く人坂本龍馬はそう歩いて見識を深め見聞を広めたわけだ。
今はモーターやエンジンであっという間に目的地着く時代、便利な分、歩くことをあまりしなくなった。かつての自分もそうで、隣駅でも電車かバイクで移動してたし、歩く意味が分からなかった。
しかし、今こうしてよく歩いてRunningをしていると、まぁよく人に声をかけられるようになったし、知らない人と会話してコミュニケーションをとって、知らない人に挨拶もよくされる。昔の自分ではあり得ないようなことだ。
道を尋ねられることはしょっちゅうで、この2ヶ月半で7人だ。
この前は商店街で知らない青年に20分つかまって会話をして、ま面白かったんだけども、汗で冷えに冷えた。
どうやら声をかけやすい人に変身したようだ。

....いい汗かいて明治神宮 北参道に到着。
こちらから入るのが自分はとても好きだ。
広葉樹が長くつづく静かな参道はとても落ちつく。
外国人の参拝者がとても多い。
お参りして、来た参道を、代々木を抜けて新宿へ。
疲労で閉口する妻....ノーコミュニケーションだ。
伊勢丹でかつ丼を入手し、帰路はとっとと電車で。
13.28km 2:13'10'' 合計で4時間ほど街を散歩。
帰ってきて、自分はその足で近所を8kmランニング。

ずっしり重すぎのかつ丼とサワーで腹一杯だ。

2015 3/24 『開花』

この一週間だったか、とても暖かい日が続いた。
窓は全開で気持ちよし。
朝に走るコースが桜並木が続いていて、それはそれは、つぼみから桜散る3週間くらい楽しめて、とっても幸せを感じる。

花粉症の症状が出始めて20数年が経つが、30歳前後の一時期は鼻水と目のかゆみで目が赤くてズルズルでなかなか辛かった時期もあった。
その年によるだけか??

ところが今から6年前、たばこ止めてランニングしはじめた頃から、以前のような花粉症の症状がそんなでもなく軽く感じられて今にいたる。
っても、 今でもくしゃみも連発するし、鼻水ズルズルッとするけども、辛い感じはなくて、薬も注射もマスクもしないでいらる。
走っている人でも、どえらく重い花粉症の人もいるし、ランニングと何か関係があるのかは分らないが。
発症したら治ることはないというけども、軽減出来ているような気がしないでもないような感じがする、どうなんだろうか。

ま、走っている時はくしゃみもほとんど出ず、目もかゆくないし、走ることによって体質が変わって微妙な変化があった。それは良いことだと思うようにしている。

しかし、今朝は寒かった。。

2015年3月24日火曜日

2015 3/24 『体重変化 マイナス18kgに』

高校を卒業して、一年間浪人して大学へ。
卒業当時の体型は筋肉質で体重は63前後だったように記憶していて、ジーンズは29インチか30インチだった。
大きくもない身体だけど、力があるなとよく驚かれたものだ。

予備校にはブンブンと毎日バイクで通って、よく食べ運動0、あれよあれよと小さいプロレスラーのような身体になっていって、当時の彼女からは嫌がられていたのを憶えている。
もちろん腹もぽっこり出ていて、写真をみる限りでは70kgはあっただろう。

大学生になって、悲しい出来事もあって、一時期グッと痩せていって、これも写真をみた感じだと60kgくらいだっただろう。
自分にとっては見たことがない身体でガリガリくらいに思ってた。
それからは元気になって体重も増えて、65kg〜70kgくらいを増減していたと思う。
運動はほぼなしの大学生生活だった。移動の手段はほぼバイクだ。

社会人になってからは、飲むし脂っこいのも好きだし、運動0生活がずいぶんと経って、その間の体重はというとだいたい72kg〜74kgだった。それが2003年頃の体型だ。ジーンズは32インチだ。
しかし、一時78kgまで増えて、風呂場でしゃがんだ三段腹に辟易しても、「痩せるわけがないしな、歳を重ねるともうこういう体型になっていくんだろうし」と諦めていた。
でもさすがに80kgになるのはイヤだったから、アルミニュウムの鍋焼き天ぷらうどんの天ぷらを半分残したり、そんなちっぽけな努力はしていた。
運動0、体重計の針は70kgをきることは一度もなかった。
ま、そういうもんだろう、ぜったい痩せないよ....と。
しかし、ある時にスーパーのネギトロで食中りに遭って、良いのかどうなのかだけども、記憶にないぐらいに久しぶりに体重計の針は70kgをきって、69kgになっていた。
驚きとともに嬉しくて、このままちょっと食の制限をしてたら痩せるかも?と、引き続きなるべく食べる順番を野菜からとか食べ物には気をつけていった。
そしたら66kgまで落ちて、まぁ〜嬉しかったことを憶えている。もちろん運動は0だ。
その頃から体質改善をと、夏でも扇風機のみの生活にして、新陳代謝もよくなっていったように思う。てんでエアコンがダメになっていった。
結婚をして少し経った頃の2007年、体重は70kgを越えていた。当時のVにそれが映っている。
で、キャベツを先にいっぱい食べて、なるべく米を食べないという晩飯にしていって、着実に体重は減って65kg前後に落ちついた。もちろん運動は0だ。
2009年の夏前に、さらに体質改善をしようと決めて、当時1日1箱半吸っていた煙草をその日から手放してみた。
そして、日常生活にランニングを取り入れてみた。
18年もの間、絶対王者のように君臨していた、縛られていた煙草....煙草がない生活なんて考えられなかったし、とにかく煙草の確保だけは徹底していた。在庫がなくなると不安だったし、飲みに行ったら2箱は軽く吸ってた。
たばこをやめてみて3日目くらいから、あれ?吸わなくても平気だ、もうちょいいってみようと一週間くらい経った時に、お〜吸わなくてももう平気だ、胸いっぱいに息を吸っても痛くない、むせない吸える!と驚いたものだ。
煙草を手放してから、18年間発作のように襲ってくる胸の苦しみはピタっと止まった。

2009年から始めたランニングもあっという間に距離がどんどんのばせるようになってきて、数年ほど体重は63kgらへんをキープしてたと思う。BMI値でいうとベストだと。筋力もあった方だから、それも体重を減らすことを後押ししてくれたのだろう。
煙草を失ったその大きなポッコリと穿たれた穴を塞ぐように、代替になるようにランニングを意識して取り入れたのも良かったのだろう。
煙草吸ったらもう走れないしなと思うようにしたのも、結果良かったなと思う。
それからは体重は変わらずとも、会う人会う人に「痩せた?」と言われるが、体重は変わらずだったので、余分だった贅肉と引き換えに脚の筋力がついて、上半身も締まってきたのだろう。

この2〜3年は60kg前後で落ちついている。体脂肪は15−18%、たまに20%。ジーンズは28インチになった。
TシャツはM or L だったのが今はSサイズ。外資ファストだとXS。
実に4インチも変わって、この7年で洋服も総入れ替え状態でだいぶ処分した。
また体型が変わると大変なのでなるべくこのままキープしたいと思う。
でもまぁ、一番は疲れにくいのとより元気になれたことで、少し動いて辛かったあの当時には戻りたくない。

こうしてみると10年近くかけてちょいちょい改善してきたのだなと改めて思う。
一気に変えることも良いけど、こういう大変なのは結果的にちびちびやった方がラクだということかもしれない。
食事制限に運動と、目標を達成したあとの大きな反動、大きな振幅がコワイし。
日常生活ではゼイゼイハァハァはあまりなく、疲労しても回復がとても早くなった。
煙草を手放す前は少しのダッシュで顔面蒼白脂汗ゼイゼイハァハァだったのが、今ではウソのようだ。

脂っこいのを少し気にしてみて、晩飯を食べる前にキャベツをたくさん食べてちょい時間を置く。これだけでも十分に身体は変わっていく。
さらに、やはり運動を取り入れることがいいと思う。
一番手軽なジョグから初めてみるのが手っ取り早いと、しかも暑い時季に....近くのストアへぐるっと遠回りして買いに行く感覚で。汗だく、走った後はビールの褒美だ。
走るというのは学生の頃の辛いおもしろくないというイメージが出来上がっているものだが、息があがるまで速く走ることはしないゆっくりスピードで走ればいい。
NIKEのエアモックにユニクロのノースリーブ綿100%というスタイルで走り始めたし。

....変われっかな?と思う方の参考になれば幸いです。

2015年3月18日水曜日

2015 3/16 『上野』

日曜日の夕方ちょい前、ランニングしている時に上野に寄ってみた。
上野の山の入口は武蔵野台地の端っこで高低差があって、桜並木はゆるやかな坂になっている。
この時季の入口には早咲きの桜が花を咲かせている。
ソメイヨシノもあともうちょいだなと“春”を感じることができる。
無邪気にはしゃいで写真を撮っているいるのはコリアン、チャイニーズ、東南アジア系の人々が多い。
プレミアムモルツを片手にべろんべろんになってた東南アジア系の軍団は、スタンディング花見をしてめちゃめちゃ楽しそうだった。
この場所にいつもいるホームレスはこの時季の喧噪ゆえにか、どこかへと移動している。
ゆるやかな坂道の手前にはこれまたせっかちな桜が一部咲いて楽しませてくれている。
そんな賑やかな上野の山だけど、幕末は上野戦争で破れた彰義隊の亡がらがいたるところに放置されていたという。
日本で初めて開かれた駅伝大会は上野 不忍池で周回コースだったと。
かつては馬も走った競馬場でもあったと。
何回も続いた東京大空襲、3/10には一晩で10万人の命が犠牲となった。
家族を失った子供達が上野駅や上野の山にたくさんいたと生き残ったおじさんに聞いたことがある。

東日本大震災が発生した年のこの時季の上野は人があまりおらず、閑散としていたのを憶えている。
あれから4年が経ち、上野東京ラインも開通していつもの日曜日よりも賑やかだったように思う。
たくさんの出来事があった上野、東北新幹線が開通して、多くの特急電車が姿を消し、今ではブルートレインは消滅へと向い続けて風前の灯だ。
東北の玄関口という愛称ももうなくなるだろう。
上野を発って左側に見える車両基地、痛みが激しいブルートレインの客車に、あまり予算をかけられないのだろうなと車窓から寂しく眺めて、尾久駅に到着。
王子駅を右手に流して、モーター音をうならせて東十条駅付近を爆走し、あっという間に赤羽駅に到着、これから先は旅のような気持ちになったもんだ。
うなるモーター音、国鉄時代のあのオレンジと緑色の車両に乗るとなんだか嬉しかったな。
土浦の親戚の家に行く時に乗ったあずき色とクリームの常磐線、上げ下げ窓を開けて、呼吸がしづらいほどに強い夏の暑い風を顔面に浴びて、台に置いた冷凍みかんは母と姉と仲良く食べて旅を楽しんだものだ。

上野初の夜行列車降りた時から青森駅は雪の中
北へ帰る人の群れはだれも無口で海鳴りだけを聞いている
....どんだけ歌っただろうか。

6.640 km   39分21秒
10.0 km   56分50秒

2015 3/10 『本郷 菊坂 樋口一葉旧居跡と井戸』


本郷通りと春日通りの交差点のそばに菊坂という坂があって、下った先は言門通りにつながる。
その菊坂が通る地域に小説家・歌人として明治期に活躍した樋口一葉がかつて住んでいたという。
24年間の短い生涯のうち、約10年間現在の文京区内に住んだようだ。
菊坂と平行に通っている坂があり、かつてそこは東大キャンパス内にある池を源泉とした東大下水(ひがしおおげすい)という川が流れていたと。
その川跡を進み、路地を入ると樋口一葉旧居跡と一葉もかつて使った井戸がある。
井戸をはさんで左手に最初住んでいて、部屋数が多い右手の家に移ったという。
と、なんともいい雰囲気を今でも見ることができる。

一葉、晩年は生活が貧窮し、明治29年に24歳で亡くなる間際まで伊勢屋質店に通ったことが日記に記されていて、その伊勢屋は菊坂に今も保存されている。
しかし今、解体の危機にあるという。
所有者が固定資産税などの負担を理由に、「これ以上の維持は困難」と区に土地の借り上げを要請。
区は当初、近隣の大学に打診し、平日は授業などに利用し、休日には一般開放できるよう関係者で協議を進めたが、まとまらず、親族は最近になって更地にして売却する意向を示したという。
現在、区の担当者は「大学と区民に協力していただき、保全活用できるよう努力し、所有者側に理解を求めていく」としている。web

坂道の町文京区。
素敵な場所がたくさんあります

【過去記事】
本郷 菊坂 樋口一葉旧居跡と井戸
本郷 菊坂 宮沢賢治旧居跡

20.240 km   2時間02分16秒

2015 3/18 『暖かい一日』

昨日は一気に暖かくなった。
20℃を越えた。
ブルゾン着ててもさむいさむいちょい前がウソのようだ。

汗びっちりかきたくなったので、久しぶりに夕方ランを。
時間的にも10kmが限界だったので、ちょい速めに脚を動かした。
夕方ってのも暖かいってのもあってよく体が動いた。
向こうからやってくる原付のおじさん、先取りもう半袖Tにサンダルでライディング。
歩行者もママチャリも交錯する交差点、ママチャリ同士でクラッシュ転倒。

10.2km 0:53'36'' 05:15/km

GPSの時計はキャッチに時間がかかることがよくあるので、寒い時に走る知ったコースはクラッシックカシオをつけて。
もうかれこれ25年くらい使っている時計、バンド交換はもう何回目だろうか。
先日も切れちゃってウレタンのに交換を。
あんまり気に入ったベルトがないけど。
しっとり馴染む。
物は使ってなんぼ。
物はとにかく丈夫がいい。
しかしよく動いてくれる。
ムギ球が照らす文字盤がなんともいいものです。

2015年3月2日月曜日

2015 3/1 『落ち合う場所』

雨が降る前に朝RUNを。

妙正寺川と神田川がかつて合流していた場所、川と川が落ち合うので落合。
大雨が降ると洪水を起こし大変だったことから、川を付け替えて、新目白通りの下に流し、明治通りとの交差点 高戸橋を新しい合流地点にした。
水も豊富で綺麗だったこともあって、かつて妙正寺川や神田川沿いには染物屋が集り染物産業が栄えていたという。

高田馬場にある鳴門鯛焼本舗、ここのはおいしいと聞いていたのでお土産に。

13.51km  1:21'07''  06'00/km

2015 2/28 『尾張徳川家』


池袋の昔の三業地&ラブH街を抜けて、ちょい先にある尾張徳川家の屋敷跡、徳川ヴィレッジ。
敷地内は現 徳川家当主の屋敷を囲むようにして欧米列強専用の住宅が立ち並んでいるという。
その敷地内には徳川黎明会があって、尾張徳川家の所蔵美術品などの管理をしている。
Run 10.9km