2015年2月25日水曜日

2015 2/15 『ウォーキング』

妻と仲良くAMから、新宿まで一時間半歩いて、帰り電車で10分....イクラ丼とエボダイと猿の惑星 ライジング。
おろしに海苔もワサビも多めがおいしいわ〜

2015 2/14 『河津桜』

川沿い朝ランコースの河津桜。

11.12km 
1:01'28'' 05'32''/km

2015 2/23 『幕末の幕臣 山岡鉄舟の墓』

台東区谷中に全生庵に山岡鉄舟の墓がある。

鉄舟、身長190cmm、体重は100kgというのだからその当時としては大男だ。

こちらから引用

今から147年前、駿府城下にて山岡鉄舟(てっしゅう)が西郷隆盛と会った。
江戸無血開城へ向け、下交渉を行なった日である。

幕末、上方における鳥羽伏見の戦いは、新政府軍が錦の御旗を掲げたことにより、旧幕府軍に圧勝し、その拠点である江戸を一気に攻め潰そうと東へ進軍していた。

旧幕府軍の首魁・徳川慶喜はすでに上野寛永寺で謹慎していたが、その恭順の意を新政府軍は受け入れず、武力討伐で決しようとしていたのだ。

幕臣の勝海舟は江戸無血開城を決意して、江戸攻撃を思いとどまらせるための策をめぐらす。
結果、幕臣らは高橋泥舟(でいしゅう)を新政府軍のもとへ派遣し、慶喜の恭順の意を改めて伝えようとした。

しかし泥舟は慶喜の身辺警護のために動けず、代わって義弟の山岡鉄舟をその役目に推薦、鉄舟を慶喜に謁見させて派遣が決定された。
このとき、刀がないほど困窮していた鉄舟は親友の関口艮輔に大小を借りて官軍の陣営に向かった。

3月6日、勝海舟から西郷に宛てた書面を携えた山岡は駿府への道を急いだ。
途中幾度なく新政府軍の誰何を受けたが、薩摩藩士と偽って潜り抜けるも、清水の手前の由比の街道は官軍の関所が出来ていて通ることができなくなっていた為に、最後の手段として街道一の大親分清水の次郎長の助けを借りる事になった。
駿府城下に着き西郷と面会を得たのは、翌々3月9日のことだ。

鉄舟は「朝敵・徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎、大総督府へ罷り通る」と大声で叫び通ったという。

すでに江戸城進撃の予定は3月15日と決定していたが、西郷は勝からの使者と聞いて山岡との会談に応じた。

西郷は江戸城総攻撃の回避条件として7つの条件を出した。
うち第1条は「徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること」だった。

山岡は7ヶ条のうち6つは受け入れるが、
第1条のみは絶対に受けられないとして断固拒否。問答が続いたが、山岡は「もし立場を入れ替え西郷殿が島津の殿様を他藩に預けろと言われたら承知するか?」と詰問。
これに西郷も理解を示しひとまずは保留として、江戸へ先乗りして海舟との会見に応じることを決めた。

そして、江戸城総攻撃予定日のわずか2日前の3月13日から、いよいよ江戸開城交渉が田町(東京都港区)の薩摩藩江戸藩邸において行なわれたのである。

江戸無血開城の陰の立役者、鉄舟について後に西郷は、こう語っている。

「あんな生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、というような男はどうにも始末に困る。だがそいういう男でなくてはともに天下の大事は語ることができない」

勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟、「幕末の三舟」と呼ばれる彼らなくして江戸無血開城はなかったかもしれない。
そして、鉄舟を無事に西郷の元に送り届けたヤクザ清水の次郎長の行動も大きく関わっていたのだ。

死ぬ思いで西郷の元へとやってきて、薩長、徳川だけではなく、日本の将来を必死に思って道理を説いた山岡鉄舟。
西郷がどうやって来たかと問うと、官軍の陣営を突破して「歩いて来た」と言った鉄舟に西郷は呆れたという。

無骨で真摯で熱い侍 、人としてとても好きだ。

本郷・谷中・上野・浅草 Running 20.24km 2:02'16''

過去記事
幕末を巡って
散歩JOG
徳川慶喜 第六天町 屋敷跡
吉祥寺 榎本武揚の墓
大円寺 高島秋帆の墓
明暦の大火と本妙寺 遠山金四郎景元の墓
幕末の幕臣 山岡鉄舟の墓

2015 2/17 『大円寺 高島秋帆の墓』

建国記念の日、新宿や皇居方面をさけて上野へランニング。

日光御成街道(本郷通り)と言門通りの交差点に高島秋帆の墓のサインを偶然にも発見し、探してみた。
でもあれだな、何十回どころじゃいほど通っている交差点の歩道だけど、初めて気がついた。 自分のように寺や地域史、歴史人に関心がある者でも気がつかなかったから、そこを通る人々にはその存在はなかなか分らないかもしれない。
ここらへんは寺がとても多く、谷中あたりもとても多い。
その多くはたび重なる江戸の火災や震災で移転してきたのではなかろうか。

本郷通りから小道を入ってすぐに大円寺を発見。
お参りして、墓地がある区画へ。
一番奥に国指定史跡 高島秋帆の墓がありました。
もう150年も経つとのこと。いや、わずか150年と言うところか。

高島さんってだれだ?

過去記事引用

板橋区の北部に高島平という地域がある。
その高島平はかつて徳丸ヶ原といわれていた湿地帯、氾濫する荒川によってしょっちゅうびっちょびちょだったよう。
長崎の町役人で砲術家だった高島秋帆(たかしましゅうはん)はオランダ人らを通じて、洋式砲術を学んでいたので日本砲術と西洋砲術の格差を知っていた。
高島秋帆はアヘン戦争で清がイギリスに敗北したことに大きな衝撃を受け、
日本を防衛するために洋式砲術を採用すべきだと国防の重要性を訴えた意見書を幕府に提出。
幕府の命令で江戸にやってきて、現 板橋区赤塚にある松月院に本陣をかまえ、眼下に広がる徳丸ヶ原(高島平)で歩砲2隊の演習と馬上発射と大砲の実弾射撃という洋式の砲術演習を行った。
幕府ははじめての洋式火砲の威力におどろき、この演習は当時の国際情勢からも話題をよんで、幕府は多くの大名や鉄砲方にも見学をさせている。
勝海舟などもこの様子をコッソリ見たと記している。
これにより幕府の高島流砲術採用が決まり、幕臣らに高島流砲術をおしえて長崎に帰ったと。
幕府から重用されてその功績を妬んだ幕府町奉行の鳥居耀蔵(とりいようぞう)は周りの人とグルになって、高島秋帆は 「密貿易をしている」と謀反の罪を着させて、幕府に訴え、逮捕・投獄されてしまう。
洋式の砲術の必要性を感じている人も多く、幽閉先では諸藩は秘密裏に高島秋帆に接触し教わっていたという。
幽閉されること10年、ペリー来航による社会情勢の変化によって赦免されて出獄し、高島秋帆はふたたび幕府に対して、このままではアメリカとは戦えないと意見書を提出し、その後幕府の砲術訓練の指導に尽力した。
坂本龍馬も高島流砲術を学び、ついこの間、坂本竜馬の血判や直筆の署名などが記された、高島流砲術家への 入門時の起請文が発見されたばかりだ。
起請文は、行いにうそや偽りのないことを神仏に宣誓する文書。
この書で竜馬は、入門後に学んだことを外部に漏らさないことや、新しい流派をつくらないことを誓約しており、巻物には竜馬の他、幕末に尊王攘夷運動を行った土佐勤王党の武市半平太や岡田以蔵ら、216人分の名前も記されている。

その演習で幕府は洋式の砲術におどろき採用したわけだが、幕府が崩壊したあと明治新政府はそのまま踏襲し、のちの日本陸軍創設の元となった。
本陣を構えていた松月院が日本陸軍発祥の地ともいわれている。

現在の板橋区高島平は自分にとってもうひとつの地元で、元は徳丸が原という地名だったが、高島秋帆の功績を讃え、高島平と改称したと。

....高島秋帆の功績は我が国にとってとても大きなものだ。

敬意を表して辞去。

最後の将軍 徳川慶喜、幕臣 榎本武揚、高島秋帆、彼らの墓所がそれぞれ近くにあるのも縁なのだろう。

過去記事
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幕末の幕臣 山岡鉄舟の墓

2015 2/16 『思いでの撤去』

フリーマガジンHIDDEN、ライフスタイルを彩る大切な要素として、音楽、アート、ファッション、エクストリームスポーツ、エンターテインメントなど、様々なカルチャーをミックスして配布する「ミックスカルチャー・フリーマガジン」。
豊富なコンテンツ、とてもおもしろい。
目にはしてたけど先日はじめて読んでみて、最近知りました。
若い子にもとても人気があって集めている人も多いのも納得ですね。
囚人服でスケートしているゴンザレス、いい写真だ。

2014 12/17 より引用
27年前...
毎日日が暮れるまで、晩飯食べた後もスケートをしていた。
ある日、光が丘でスケートした帰りだっただろうか、仲間が「ちょっと遠いけど、ランプある公園があんだよ、行こうぜ!」と。
どんだけの距離をプッシュ(地面を蹴って進むこと)しただろうか。
結構ヘトヘトになって到着。
「ランプがある~~!、ってなんだ~、一回しか滑れないじゃん!」
たぶんそんな会話だったと思う。
怖いもの見たさ的、チャレンジ精神は強かったので、トライ。
ドロップイン、段差部分手前でオーリー、コーピングにデッキを引っ掛けて...
・・・おもいっきりスッ転んだ、あたり前だ。
※ オーリー:ジャンプ、コーピング:Rの終わりのエッジ部分、ドロップイン:上の平な部分に立ってRに滑り入ること。

「じゃぁあのデカイのは?」
「これは超~あぶねーよ、Rが急過ぎるよ!大けがするぜっ ゲラゲラケタケタ」

中学生はア◯な世代だ。でも猛烈に楽しかったな。

たまに立ち寄る縄文人がかつてどっさり暮らしていた公園...
何かコレ見たことあるなぁと、つい最近思いだした27年前のこと。
しかし、この遊具はちびっ子はどうやって遊ぶのだろうか、座ってゲームしているのは見たことがあるけど。

----------------------
昨日また通りかかったあぶないランプがある公園...
すっかり解体撤去されて姿を消していた。
どうやって遊ぶのかわからない遊具らはついに役目を終えたわけだ。
なんだかすごーくショックだった。
今度ははどういう遊具が設けられるのか、はたまた、あぶない!という理由でどんどん撤去されている遊具と同じ運命で、今後は何もなくなってしまうのだろうか。

...27年前のあの頃、川越藩主の参勤交代で整備された川越街道、みなごろしや極悪という暴走族のメインストリートだった川越街道を、ケガして痛む身体にむち打って往復約10km、石神井川が流れる台地のなかの低地から高台へ、東武練馬から武蔵野台地を一気に下って低地の徳丸が原(高島平)へ鬼プッシュして帰ったのもいい思い出だ。

豊島区池袋では、有志らがスケートパークを作ろうと奔走している。
渋谷の宮下公園のように、駒沢公園のように、もし整備されたらたくさんの人々が遊びに訪れるだろう。
当時中学生だったスケーターが親父なり、子供と一緒にすべるシーンも珍しくない。親父は80年代の当時の重いスケートボードであえて加齢に華麗にメイク、それもなかなか格好いいだろう。
かつてのあの身体の柔さはもうないので、いちばん怖いのはケガだ。
ケガの治りがもうかなり遅いし...
ま、池袋にスケートパークがぜひできて欲しいなと心から思います。

【過去記事】
オールドスクール
オールドスクール #2
生まれる
あぶないランプ
クルーザー
メイク
思いでの撤去

2015 2/5 『小銭』

消費税が8%になってからというもの、小銭が増えまくって財布がぱんぱんになっていることが多くある。
そんな人、特に男性はそういう人は多いのじゃないだろうか。
あと1-2円足らないことでどんどん小銭が増えてくる。
でも、うまく計算して小銭を出せばいいのだけど、レジでちまちましているのがとてもイヤで、結局札や100円などで払って、結局どんどん増える。
「ヘタだね~」と妻にも言われるが、ヘタなのではなく面倒なのだと反論。
女性はストアにはよく行くからそりゃうまいし、小銭をだすのが面倒ではないのだろう。

お休みの日、ランニングしたその足でスーパーに寄ることが多いけど、¥389のその表示、手がかじかんでもうぜんぜん小銭が出せなくて、レジの人に横目でチラ見のプレッシャーにちょい焦るも、ぜんぜん動かない、しまいにゃぁ薄く苦笑だ。

例えば¥498とかを小銭でぴったり払えることがある時なんか嬉しいものだ。

町の中にはたくさんの子育て地蔵尊や不動尊、馬頭観音、神社、寺がある。
正月や祭り以外はほぼ参らない人も多いし、道端に祀られている地蔵菩薩に手を合わせることもあまりないだろか。
我が子が亡くなって、地域の子供たちが安心安全に暮らせていけるようにとこの場所に地蔵菩薩を祀りました....と、そういうのを知るとなんともいえない気持ちになる。お地蔵さんの維持管理になるお賽銭を、鼻水をちょっと吸ったグローブを脱いで、ぜんぜんいうことをきかない手先で入れて、手をあわせる。

都内をあちこちランニングして、小銭はお賽銭になっていく。

2015 2/4 『JT』

ひとのときを想うJT

大切なひととき、たばこを手放してよくそのことが分って感心したコピーだ。

80年代中頃から後半、米列強からプロスケーターがたくさん来日して、池袋では大会も開かれてめちゃくちゃ盛り上がっていた。
自分も西武百貨店や、元刑務所跡地でアレが出るとか、夜な夜なハグしている恋人達が出て、そのシーンを覗くアレも出没する性霊の場サンシャインにもよく滑りに遊びにいった。
大会では、スケートをしたことがないであろう日本の大工さんが作ったでかいランプに、「ヘイッ!ここは釘が出ていて怪我するゼッ!」と、危ないとあちこち指摘し自らトンカチでリペアしてたのを憶えている。
スケーターは昔も今も手先が器用な人が実は多かったりする。

そんなスター、その中でもクリスチャンホソイというスケーターが特に好きだった。
日本だと細井さんだろう。
彼がまたすんごい高いエア(ジャンプ)をするのだ。
その当時の僕は、HOSOIモデルのデッキに乗り、ロケットエアやモスキートエアなどよくマネして飛んでいた。
西武デパートの納品ターミナルでよく滑っていたのだけど、そこにHOSOIさんがやってきてスケートして、その姿にとても興奮した。
「ハイ HOSOIさん! シェイクハンド〜」と声をかけて、クールなフェイスで握手をしてくれて、その手は実にしっとりしてて分厚かった。
自分にとって、握手をした初めてのスターだ。

ま、そんなHOSOIさんだが、紆余曲折いろいろあって...
SNSの時代、今でも彼の近況を垣間見ることができて、当時を懐かしく思いだすのです。
マッチョ姿でJTエアをきめるHOSOIさん...
昔から、なぜ欧米人はパン一(パンツ一丁)でよくランニングやスケートボード、スポーツをするのだろうかと、汗とかどうでもよくて気持ちがいいからだろうか、たぶんそうだろうな。

...真夏、パンイチで街をランニングできたらいいのにな、と、よく思う。

2015 2/2 『ゆっくり走ること』

なるほどと思って引用...

200万年前、アフリカのサルが樹上から地上に降りてきて、直立二足移動(ランニング、ジョギング、ウォーキング)をするようになり、足の速い四足動物が捕まえた獲物を横取りして食べるようになったのが、私たち人類のスタートでした。
この行動のおかげで脳が大きくなって、体は長距離を走れるように変化し、ついにはヒトは地上の覇者となることができたのです。
われわれは、走ることで側座核が働いて気持ちよくなることができます。側座核が働くと腹側被蓋野が働いてドーパミンを分泌し、前頭前野、運動前野、運動前野、運動野、海馬がよく働くようになり、記憶力が増して長く走り続けられるようになります。しかし、走っているのを見ているだけでは側座核は働きません。実際に走ることが重要なのです。また、ドーパミンによって前頭前野がよく働くと思考力や決断力や注意力が、運動前野がよく働くようになると運動のスキルが、運動野がよく働くと細かい微妙な動作が素早くできるようになります。つまり、走ると頭がよくなるのです。
私は46歳のときにジョグングをはじめて、それ以来走ることを習慣にしてきました。79歳の今も毎日欠かさず走っていますが、これまでに走ることで失ったのは皮下脂肪ぐらいで、あとは得たものばかりでした。走ることで、脳や体が丈夫になり、疲れにくくなるから脳研究に使う時間が増え、研究の業績も上がりました。

世界中でたくさんの脳機能の実験が行われ、現在では「走ることで脳の機能が向上する」だけでなく、「脳の構造が変化し、神経細胞の数が増える」ことまでもが証明されています。
また、走ることが生活習慣病などによる脳機能の低下を防ぎ、不眠症やうつから脳を守り、さらにはアルツハイマー病の症状を軽くし、発症を遅らせることもわかってます。
スロージョギングを行うために朝30分早起きする。
たったこれだけの投資で、これからの人生に大きな財産を獲得できます。

勉強でも仕事でも運動でも、まずは“動く”こと。実際に行動すると脳に刺激が与えられ側坐核が活発に働きだし、「やる気」が出るのです。
そして、一度、側坐核が働き出すと、どんどん「やる気」は出てきます。

....とりあえずやってみる、作業してみる、そして脳みその側座核を働かせてドーパミンをどんどん出そうということですね。
スロージョギングや息が上がらない速さでのジョグはとてもラクです

2015 2/2 『吉祥寺 榎本武揚の墓』

文京区の本駒込、日光御成街道(本郷通り)沿いに吉祥寺がある。
かつては現水道橋交差点近くに建立されたそうだが、江戸の大半が焼失した明暦の大火などで現在の地に移転したと。
吉祥寺の門前町に住んでいた住民が武蔵野市東部に移住し、吉祥寺に愛着をもっていたために吉祥寺村と名付けて、発展して現在の吉祥寺にいたる。

吉祥寺に幕臣 榎本武揚の墓所があると知っていたので、日曜日の朝にランニング途中に初めて訪れてみた。
【先人たちの底力 知恵泉より】
幕臣として函館・五稜郭で最後まで新政府軍に抵抗した榎本武揚。
敗北後は一転して新政府の高官となった。
なぜ彼は生き残ったのか。
そこには一つの秘められた思いがあった。
テーマは「負けても生き残れ!」。
榎本武揚ほど波乱万丈の人生を送った人も少ないだろう。
幕臣として、函館・五稜郭で最後まで新政府軍に抵抗。
敗北後は一転して新政府の高官として登用された。
なぜ彼は生き残れたのか。
いや、生き残ろうと思ったのか。
ともすれば「転向した」と非難される榎本。
その人生を探ると、すさまじい能力と決意が明らかに。
新政府側の人間を感動させた榎本の行動とは?埋もれた榎本の功績に光を当てる。

とてつもない知識欲、たくさんの学問を修めて、処分するにはあまりにも惜しい人材、新しい日本には彼が必要だと、敵である薩摩長州らをも凌駕する先見の明に才能と経験が自身を救ってくれた。
幕臣、武士として敗北し、一回死んだその命、新政府のため日本のために外交官、政治家としてただひたすらに尽くしたと。

「どんな人でもだれかに必要とされている。」
本当にそう思うし、彼の生き方にもとても学ぶことがあります。

二宮尊徳のお墓もありました。(2枚目)

過去記事
幕末を巡って
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徳川慶喜 第六天町 屋敷跡
吉祥寺 榎本武揚の墓
大円寺 高島秋帆の墓
明暦の大火と本妙寺 遠山金四郎景元の墓
幕末の幕臣 山岡鉄舟の墓

2015 2/25 『言葉 教え』

十善戒
不悪口 ふあつく 悪口を言わない by 弘法大師 空海 真言宗豊山派

為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり
上杉鷹山

2015年2月18日水曜日

2015 2/17 『GYAKUSOU 2015SS』

ユーティリティショートタイツ、暑い季節に大活躍ですね。

このタイツはポッケがたくさん付いていて、ぴったりもっこりを隠せるので、タイツ一枚でも恥ずかしくないデザインになっている。
持ち物をたくさん収納できるし、洗濯物が少なくなってラクになる。

夏にはピッタリですね。

ノースリーブとショーツだけ、暑い季節が恋しい。
しかし寒すぎ....

2015年2月3日火曜日

2014 12/12 『目白台 台地の屋敷』

1枚目の写真は目白通りから新宿方面を見る。
激しく急な坂の下には神田川が流れていて、
とっても見晴らしが良く、富士見坂とよばれている。
ビル群が建っていなかった昔はすごい眺望だったのだろう。
この高台は目白台とよばれて、
台地はちょうど南に面して遮るものもなく、
陽当たりも眺望も抜群だったがゆえに、
屋敷を構える権力者が多かったのだろう。

2枚目の赤丸部分、
田中角栄邸がある。
角栄邸前を通る目白通りと
その先につながっている関越自動車道を使えば
故郷まで一本で帰れるとも言われる。

2枚目の青丸部分、
現在の椿山荘の土地は
長州藩士 奇兵隊 国軍の父 山縣有朋邸跡で、
本人はこの土地をとっても気に入っていたという。

2枚目の黒丸部分は
早稲田大学でこの土地は神田川に面する低地にあって、大隈重信邸跡。
政治家であり教育者でもある大隈重信、
庶民や学生にも親しみやすい方だったのだろうか。
一方、国民に人気がなかったともいわれている山縣とその山縣邸や、
圧倒的で善くも悪くもの田中角栄とその角栄邸は
大隈重信や庶民が暮らす低地を見下ろしているのだろうか、
と、そんな構図にも見えてしまう。

3枚目の青四角部分、
目白駅をはさんで西側には、
貴族政治家 公爵の近衛篤麿(第34-38-39代 内閣総理大臣 近衛文麿の父)が邸宅を構えた土地。

3枚目の黒四角部分
すぐ近くには尾張徳川家 徳川義親邸があり、
現在も高級住宅街 徳川ビレッジとして存在して有名。

3枚目の緑四角部分
崖に面しておとめ山公園があるが、
江戸時代にこの一帯が徳川家の狩猟地で
一般庶民は立ち入りを禁止されていたために、
おとめ山は御禁止山と書かれるそうだ。
そういう土地の縁もあって、
麻布富士見邸(現、駐日フランス大使館)からの景観に
煙突が増えたことを嫌った夫人の為に
昭和初期に目白へ引っ越してきたのだろう。

patagonia日本の第一号店として
目白の住宅街にオープンしたのはかれこれもう25年前だ。
オープンしてすぐにピンク色のシンチラと赤いスイムショーツを買い物に行った。
買い物客が通る道沿いにストアがあるのではなく、
あえて目的地となる店(デスティネーションストア)として
存在させるという考えからだと。
決して安くはないその価格、
環境に優しく品もあるアウトドアウェアメーカーだなと、
そして渋谷とかではなく、なんで目白の住宅街に出店したのだろうと思ったが、
高級、品のあるというイメージ戦略だったわけだ。
で、その通り、とりあえずpatagoniaを着ておけば
お洒落に見えるから安心だという風潮も
広がっていったと記憶している。
ジャケットもシンチラもスイムショーツも
昔の大きめサイズで、
今では普段着としてはあまり着ることがなくなってきたが、
過酷な天候の際には今でも大活躍するたのもしいウェアだ。

ノラ猫でも品よく見える目白界隈、とてもいいところです。

13.150 km   1時間12分14秒  走りました

【過去記事】
谷端川(源泉から池袋本町)
谷端川 2(池袋本町から小石川)
谷端川と池袋の名の由来
神田川に注ぐ谷端川
石神井川
かつての石神井川
石神井川 旧河道
石神井川 旧河道の露頭
昭和の石神井川
霜降銀座 古石神井川と谷田川
石神井川 沼
石神井川に佇む不動明王 安全の祈願
石神井川の付け替え
下野谷遺跡
王子七滝
長池跡(谷戸川源流)
不忍池
水窪川
田柄川
ボクらのホームグラウンド、前谷津川
池袋の川 弦巻川
千川上水跡
分水嶺、千川上水調節池跡
河骨川(春の小川)
自然の猛威 渋谷川千駄ヶ谷・代々木支流付近の谷
中台馬場先貝塚
池袋富士塚と池袋貝塚
急傾斜地
新宿区 赤城元町の崖
池袋 四面塔尊
のぞき坂
縁切り榎 政略結婚と女性救済の場
徳川慶喜 第六天町 屋敷跡
目白台 台地の屋敷
近藤勇と新選組隊士供養塔
新選組 沖田総司 逝去の地
案内標識と庚申塔
清戸道の名家
巣鴨遺跡
城跡
仙がい義梵
迷子センター
別れの橋跡・見送り坂と見返り坂 本郷4-37先本郷通り
駒込富士神社と古墳群

2014 12/19 『石神井川に佇む不動明王 安全の祈願』

練馬区の豊島園のそば、石神井川にかかる大橋という橋の袂に、交通の安全、村人の安全を祈って不動明王が大切に祀られている。
神奈川県伊勢原の大山へ詣でる(阿夫利神社)人々がここで禊を行ったという。
江戸時代後期には大橋はもう架けられていて、ふじ大山道へと至る要衝だったのだろう。
この道辿って行くと板橋区の赤塚にある不動の滝にも通じる。
地図の青い点が不動の滝で、この滝も大山へ詣でる人々が禊を行ったという。
下赤塚までは鎌倉街道と重複する。
江戸時代に大流行した富士大山詣で、気軽に登れるために大山詣では特に人気だったという。
明治になり、交通網も発達してもっと気軽に登れるようになった為に、大山への道標・庚申塔や、禊をした湧水も宅地開発によって減ったり枯れたりして、その役目を終えた。
しかしながら、江戸期の歴史やインフラを知る意味でも大切な史跡として、今も大切にされている。
200年も前からこの場所で人々を見守るお不動様、人々の信仰心、祈りが宿っているのだろう、威風堂々たる姿。

古道ならまだ何かあるかなと、大橋を渡って進んだ。
臨済宗大徳寺派 廣徳寺があった。
立派なお寺さんだなと掲示板を読んでいると、作務衣を着た若いお寺の方が出ていらして、声をかけてくださって少しお話を。
恐れ入谷の鬼子母神 びっくり下谷の広徳寺、そのお寺ですと。
なんでも、関東大震災で焼けてしまって、その後、上野の下谷からこちらに移転してきたですよと。
ここら辺もよくランニングしているし、上野もよくランニングで通るんですと言うと、でしょうね~って....なんか読まれてた感がして笑えたけど。
またお会いしましょうと辞去。

何かとご縁がある加賀藩、加賀藩前田家や織田家も檀家で大寺院となったと。

そういうコミュニケーションも一興

42.310 km   4時間01分18秒  走りました

2014 12/17 『あぶないランプ』

27年前...
毎日日が暮れるまで、晩飯食べた後もスケートをしていた。
ある日、光が丘でスケートした帰りだっただろうか、仲間が「ちょっと遠いけど、ランプある公園があんだよ、行こうぜ!」と。
どんだけの距離をプッシュ(地面を蹴って進むこと)しただろうか。
結構ヘトヘトになって到着。
「ランプがある~~!、ってなんだ~、一回しか滑れないじゃん!」
たぶんそんな会話だったと思う。
怖いもの見たさ的、チャレンジ精神は強かったので、トライ。
ドロップイン、段差部分手前でオーリー、コーピングにデッキを引っ掛けて...
・・・おもいっきりスッ転んだ、あたり前だ。
※ オーリー:ジャンプ、コーピング:Rの終わりのエッジ部分、ドロップイン:上の平な部分に立ってRに滑り入ること。

「じゃぁあのデカイのは?」
「これは超~あぶねーよ、Rが急過ぎるよ!大けがするぜっ ゲラゲラケタケタ」

中学生はア◯な世代だ。でも猛烈に楽しかったな。

たまに立ち寄る縄文人がかつてどっさり暮らしていた公園...
何かコレ見たことあるなぁと、つい最近思いだした27年前のこと。
しかし、この遊具はちびっ子はどうやって遊ぶのだろうか、座ってゲームしているのは見たことがあるけど。

【過去記事】
オールドスクール
オールドスクール #2
生まれる
あぶないランプ
クルーザー
メイク

2015 1/30 『メイク』

7年前....
「オレさぁ、プラモデル完成させたことないんだよねっ!飽きちゃってさぁ~ グワッハッハー」と言ってた大先輩に、非常にびっくりしたことがあった。
「プラモデルの意味が、概念が分らんね~」とも言ってたなぁ....

今から30何年か前...
ガンプラの初期が発売されて、大人気となった。
どこそこに◯◯があるよーという情報が飛び交っていた。
学校から速攻で帰って鬼ダッシュでおもちゃ屋に駆けこんだ。
レア度が高いのが積まれていたらもう大興奮して胸に抱えてレジへ。
不人気キャラのホワイトベースとかボールとかはしばらくの間売れ残って、なんだか可哀想くらいに思ってた。

友らの家に遊びに行くと必ずガンプラが机に飾ってあった。
きれいなものや素っ頓狂的なのとかそれはそれはさまざまだった。
「作ったよー」と友が持って来たガンプラ、チューブのセメダインで組立てて全ての接合部がどろっどろにはみ出した奇々怪々の微妙に柔い戦士にどういうことだよと思って笑えなかった。
ある猛者は接合部をすべてセロハンテープでコンストラクトしたカッチカチのセロハンの塊ボンテージ戦士に大爆笑したことがある。
薄め液の使い方に大失敗してレインボーカラーになった見たことがない戦士に変身させた彼に、図太いな~と思ったことがある。
ちがうキャラに成り上がったモデルらはボクらの宝物。
プラモ作りは個性が露呈するガキ時期のいい学びだ。

....時代遅れのフォルム、カンナでシェイプして、なんていうことでしょうか!化したスケートのデッキ、今でもベランダストッカーに眠っている。
プラモデルをちまちまねちねちメイクするのも、スケートでケガだらけで全身を使ってメイクするのもどちらもいいもんです。

【過去記事】
オールドスクール
オールドスクール #2
生まれる
あぶないランプ
クルーザー
メイク

2015 1/21 『踏切』

地上を走っていた電車は次々と高架化されたり地下化されている。
踏切はあぶないから徐々に廃止していこうと決まっていたという、確か...
都内、住宅街をぬって走る車両はこの20年くらいでばんばん消えていっているだろうか。
バイクであちこち待った踏切、ぜんぜん開かなくてイライラしたたっけな。

山手線に乗っていると踏切がないことに気づく人は多いのだろうか。
山手線は切り通しや高架を通しているので、踏切がない。
短い間隔で運行されているし、大動脈だから事故があって止まったりしないようにとか、開かずの踏切になってしまうからだろうか....?
正確には今、ひとつだけ踏切が駒込~田端の間にある。
生活道路で交通量が少ないから廃止にはしていないという。
貴重な踏切。

池袋~目白にあった踏切は、ちょい前に廃止された。
山手線と貨物線(埼京線)の4つの線路があるので、開かずとして有名だったという。
踏切が廃止されて、その代わりにEVがついた跨線橋が架けられた。
一回使ったことがあって便利だなと思ったけど、踏切がないとちょっと雰囲気はさみしくなりますね。
踏切の事故はほんと多いので安全になっていくのはいいけども。
都電が幹線道路を渡って行く光景なんかとてもいいものですよ。

11.060 km   1時間05分12秒  走りました

2015 1/26 『駒込富士神社と古墳群』

文京区、東京大学のちょいと先の本駒込に富士神社がある。

拝殿は富士塚の上にあり、江戸時代後期には「江戸八百八講、講中八万人(えどはっぴゃくやこう、こうちゅうはちまんにん)」といわれるほど流行した富士講のなかでも、ここは最も古い組織の一つがあり町火消の間で深く信仰された。
火消頭の組長などから奉納された町火消のシンボルマークを彫った石碑が数多く飾られている。
しかし、石碑の彫刻文字の色入れに大失敗してこわくなっている...
しかもあちこちほぼ大失敗している。
拝殿へはかなり急な階段を登らなくてはならなく、下りがなかなかあぶない。
初夢で有名な「一富士、二鷹、三茄子」は、周辺に鷹匠屋敷があった事、駒込茄子が名産物であった事に由来する。「駒込は一富士二鷹三茄子」と当時の縁起物として川柳に詠まれた。
一番下の江戸名所図会にも冨士構が描かれている。

拝殿のある富士塚は、3世紀半ばから7世紀の古墳時代に造られた前方後円墳を元にして、その上に造られたと言われている。
この地を治ていた権力者の聖なる場所として後世に伝えられて、1000年後の江戸時代に神社として造営されたのだろうか。

この富士神社がある本郷通り(日光御成街道)を少し北上して行くと、飛鳥山古墳群、十条台古墳群、赤羽台古墳群などがある。
そして、現 西ヶ原に武蔵国豊島郡家、いわゆる役所が創設されて、豊島氏が豊島群を支配した。(御殿前遺跡)
縄文時代~弥生時代~古墳時代(350年~700年)から発展してきて、1477年に太田道灌に豊島氏は滅ぼされるまで、この地域は都市の中心だったわけだ。
穏やかな田舎だった豊島群に太田道灌親子が攻め入ってきて、人々の暮らしを破壊し、めちゃくちゃにしたわけだ。それが支配、治めるということだろうが、いい迷惑としか言いようがないとも言える。

古墳はあちこちにあるが、都内で有名なのは増上寺のお隣、芝公園にある大きな芝丸山古墳だろう。
古墳時代、西部は多摩川沿い、南部の中心は芝、北部の中心は駒込・西ヶ原・飛鳥山・十条・赤羽だったのだろうか。

遺跡といっても、
旧石器時代~縄文時代~弥生時代
古墳時代~飛鳥時代~奈良・平安時代
中世の鎌倉時代~室町時代
江戸時代遺跡
明治時代からの近現代遺跡
と、とても幅が広く、それぞれの時代を知って行くと町や土地の見方が大きく変わってくる。

8.30 km   51分27秒  走りました

【過去記事】
谷端川(源泉から池袋本町)
谷端川 2(池袋本町から小石川)
谷端川と池袋の名の由来
神田川に注ぐ谷端川
石神井川
かつての石神井川
石神井川 旧河道
石神井川 旧河道の露頭
昭和の石神井川
霜降銀座 古石神井川と谷田川
石神井川 沼
石神井川に佇む不動明王 安全の祈願
石神井川の付け替え
下野谷遺跡
王子七滝
長池跡(谷戸川源流)
不忍池
水窪川
田柄川
ボクらのホームグラウンド、前谷津川
池袋の川 弦巻川
千川上水跡
分水嶺、千川上水調節池跡
河骨川(春の小川)
自然の猛威 渋谷川千駄ヶ谷・代々木支流付近の谷
中台馬場先貝塚
池袋富士塚と池袋貝塚
急傾斜地
新宿区 赤城元町の崖
池袋 四面塔尊
のぞき坂
縁切り榎 政略結婚と女性救済の場
徳川慶喜 第六天町 屋敷跡
目白台 台地の屋敷
近藤勇と新選組隊士供養塔
新選組 沖田総司 逝去の地
案内標識と庚申塔
清戸道の名家
巣鴨遺跡
城跡
仙がい義梵
迷子センター
別れの橋跡・見送り坂と見返り坂 本郷4-37先本郷通り
駒込富士神社と古墳群