2015年2月25日水曜日

2015 2/15 『ウォーキング』

妻と仲良くAMから、新宿まで一時間半歩いて、帰り電車で10分....イクラ丼とエボダイと猿の惑星 ライジング。
おろしに海苔もワサビも多めがおいしいわ〜

2015 2/14 『河津桜』

川沿い朝ランコースの河津桜。

11.12km 
1:01'28'' 05'32''/km

2015 2/23 『幕末の幕臣 山岡鉄舟の墓』

台東区谷中に全生庵に山岡鉄舟の墓がある。

鉄舟、身長190cmm、体重は100kgというのだからその当時としては大男だ。

こちらから引用

今から147年前、駿府城下にて山岡鉄舟(てっしゅう)が西郷隆盛と会った。
江戸無血開城へ向け、下交渉を行なった日である。

幕末、上方における鳥羽伏見の戦いは、新政府軍が錦の御旗を掲げたことにより、旧幕府軍に圧勝し、その拠点である江戸を一気に攻め潰そうと東へ進軍していた。

旧幕府軍の首魁・徳川慶喜はすでに上野寛永寺で謹慎していたが、その恭順の意を新政府軍は受け入れず、武力討伐で決しようとしていたのだ。

幕臣の勝海舟は江戸無血開城を決意して、江戸攻撃を思いとどまらせるための策をめぐらす。
結果、幕臣らは高橋泥舟(でいしゅう)を新政府軍のもとへ派遣し、慶喜の恭順の意を改めて伝えようとした。

しかし泥舟は慶喜の身辺警護のために動けず、代わって義弟の山岡鉄舟をその役目に推薦、鉄舟を慶喜に謁見させて派遣が決定された。
このとき、刀がないほど困窮していた鉄舟は親友の関口艮輔に大小を借りて官軍の陣営に向かった。

3月6日、勝海舟から西郷に宛てた書面を携えた山岡は駿府への道を急いだ。
途中幾度なく新政府軍の誰何を受けたが、薩摩藩士と偽って潜り抜けるも、清水の手前の由比の街道は官軍の関所が出来ていて通ることができなくなっていた為に、最後の手段として街道一の大親分清水の次郎長の助けを借りる事になった。
駿府城下に着き西郷と面会を得たのは、翌々3月9日のことだ。

鉄舟は「朝敵・徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎、大総督府へ罷り通る」と大声で叫び通ったという。

すでに江戸城進撃の予定は3月15日と決定していたが、西郷は勝からの使者と聞いて山岡との会談に応じた。

西郷は江戸城総攻撃の回避条件として7つの条件を出した。
うち第1条は「徳川慶喜の身柄を備前藩に預けること」だった。

山岡は7ヶ条のうち6つは受け入れるが、
第1条のみは絶対に受けられないとして断固拒否。問答が続いたが、山岡は「もし立場を入れ替え西郷殿が島津の殿様を他藩に預けろと言われたら承知するか?」と詰問。
これに西郷も理解を示しひとまずは保留として、江戸へ先乗りして海舟との会見に応じることを決めた。

そして、江戸城総攻撃予定日のわずか2日前の3月13日から、いよいよ江戸開城交渉が田町(東京都港区)の薩摩藩江戸藩邸において行なわれたのである。

江戸無血開城の陰の立役者、鉄舟について後に西郷は、こう語っている。

「あんな生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、というような男はどうにも始末に困る。だがそいういう男でなくてはともに天下の大事は語ることができない」

勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟、「幕末の三舟」と呼ばれる彼らなくして江戸無血開城はなかったかもしれない。
そして、鉄舟を無事に西郷の元に送り届けたヤクザ清水の次郎長の行動も大きく関わっていたのだ。

死ぬ思いで西郷の元へとやってきて、薩長、徳川だけではなく、日本の将来を必死に思って道理を説いた山岡鉄舟。
西郷がどうやって来たかと問うと、官軍の陣営を突破して「歩いて来た」と言った鉄舟に西郷は呆れたという。

無骨で真摯で熱い侍 、人としてとても好きだ。

本郷・谷中・上野・浅草 Running 20.24km 2:02'16''

過去記事
幕末を巡って
散歩JOG
徳川慶喜 第六天町 屋敷跡
吉祥寺 榎本武揚の墓
大円寺 高島秋帆の墓
明暦の大火と本妙寺 遠山金四郎景元の墓
幕末の幕臣 山岡鉄舟の墓

2015 2/17 『大円寺 高島秋帆の墓』

建国記念の日、新宿や皇居方面をさけて上野へランニング。

日光御成街道(本郷通り)と言門通りの交差点に高島秋帆の墓のサインを偶然にも発見し、探してみた。
でもあれだな、何十回どころじゃいほど通っている交差点の歩道だけど、初めて気がついた。 自分のように寺や地域史、歴史人に関心がある者でも気がつかなかったから、そこを通る人々にはその存在はなかなか分らないかもしれない。
ここらへんは寺がとても多く、谷中あたりもとても多い。
その多くはたび重なる江戸の火災や震災で移転してきたのではなかろうか。

本郷通りから小道を入ってすぐに大円寺を発見。
お参りして、墓地がある区画へ。
一番奥に国指定史跡 高島秋帆の墓がありました。
もう150年も経つとのこと。いや、わずか150年と言うところか。

高島さんってだれだ?

過去記事引用

板橋区の北部に高島平という地域がある。
その高島平はかつて徳丸ヶ原といわれていた湿地帯、氾濫する荒川によってしょっちゅうびっちょびちょだったよう。
長崎の町役人で砲術家だった高島秋帆(たかしましゅうはん)はオランダ人らを通じて、洋式砲術を学んでいたので日本砲術と西洋砲術の格差を知っていた。
高島秋帆はアヘン戦争で清がイギリスに敗北したことに大きな衝撃を受け、
日本を防衛するために洋式砲術を採用すべきだと国防の重要性を訴えた意見書を幕府に提出。
幕府の命令で江戸にやってきて、現 板橋区赤塚にある松月院に本陣をかまえ、眼下に広がる徳丸ヶ原(高島平)で歩砲2隊の演習と馬上発射と大砲の実弾射撃という洋式の砲術演習を行った。
幕府ははじめての洋式火砲の威力におどろき、この演習は当時の国際情勢からも話題をよんで、幕府は多くの大名や鉄砲方にも見学をさせている。
勝海舟などもこの様子をコッソリ見たと記している。
これにより幕府の高島流砲術採用が決まり、幕臣らに高島流砲術をおしえて長崎に帰ったと。
幕府から重用されてその功績を妬んだ幕府町奉行の鳥居耀蔵(とりいようぞう)は周りの人とグルになって、高島秋帆は 「密貿易をしている」と謀反の罪を着させて、幕府に訴え、逮捕・投獄されてしまう。
洋式の砲術の必要性を感じている人も多く、幽閉先では諸藩は秘密裏に高島秋帆に接触し教わっていたという。
幽閉されること10年、ペリー来航による社会情勢の変化によって赦免されて出獄し、高島秋帆はふたたび幕府に対して、このままではアメリカとは戦えないと意見書を提出し、その後幕府の砲術訓練の指導に尽力した。
坂本龍馬も高島流砲術を学び、ついこの間、坂本竜馬の血判や直筆の署名などが記された、高島流砲術家への 入門時の起請文が発見されたばかりだ。
起請文は、行いにうそや偽りのないことを神仏に宣誓する文書。
この書で竜馬は、入門後に学んだことを外部に漏らさないことや、新しい流派をつくらないことを誓約しており、巻物には竜馬の他、幕末に尊王攘夷運動を行った土佐勤王党の武市半平太や岡田以蔵ら、216人分の名前も記されている。

その演習で幕府は洋式の砲術におどろき採用したわけだが、幕府が崩壊したあと明治新政府はそのまま踏襲し、のちの日本陸軍創設の元となった。
本陣を構えていた松月院が日本陸軍発祥の地ともいわれている。

現在の板橋区高島平は自分にとってもうひとつの地元で、元は徳丸が原という地名だったが、高島秋帆の功績を讃え、高島平と改称したと。

....高島秋帆の功績は我が国にとってとても大きなものだ。

敬意を表して辞去。

最後の将軍 徳川慶喜、幕臣 榎本武揚、高島秋帆、彼らの墓所がそれぞれ近くにあるのも縁なのだろう。

過去記事
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幕末の幕臣 山岡鉄舟の墓

2015 2/16 『思いでの撤去』

フリーマガジンHIDDEN、ライフスタイルを彩る大切な要素として、音楽、アート、ファッション、エクストリームスポーツ、エンターテインメントなど、様々なカルチャーをミックスして配布する「ミックスカルチャー・フリーマガジン」。
豊富なコンテンツ、とてもおもしろい。
目にはしてたけど先日はじめて読んでみて、最近知りました。
若い子にもとても人気があって集めている人も多いのも納得ですね。
囚人服でスケートしているゴンザレス、いい写真だ。

2014 12/17 より引用
27年前...
毎日日が暮れるまで、晩飯食べた後もスケートをしていた。
ある日、光が丘でスケートした帰りだっただろうか、仲間が「ちょっと遠いけど、ランプある公園があんだよ、行こうぜ!」と。
どんだけの距離をプッシュ(地面を蹴って進むこと)しただろうか。
結構ヘトヘトになって到着。
「ランプがある~~!、ってなんだ~、一回しか滑れないじゃん!」
たぶんそんな会話だったと思う。
怖いもの見たさ的、チャレンジ精神は強かったので、トライ。
ドロップイン、段差部分手前でオーリー、コーピングにデッキを引っ掛けて...
・・・おもいっきりスッ転んだ、あたり前だ。
※ オーリー:ジャンプ、コーピング:Rの終わりのエッジ部分、ドロップイン:上の平な部分に立ってRに滑り入ること。

「じゃぁあのデカイのは?」
「これは超~あぶねーよ、Rが急過ぎるよ!大けがするぜっ ゲラゲラケタケタ」

中学生はア◯な世代だ。でも猛烈に楽しかったな。

たまに立ち寄る縄文人がかつてどっさり暮らしていた公園...
何かコレ見たことあるなぁと、つい最近思いだした27年前のこと。
しかし、この遊具はちびっ子はどうやって遊ぶのだろうか、座ってゲームしているのは見たことがあるけど。

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昨日また通りかかったあぶないランプがある公園...
すっかり解体撤去されて姿を消していた。
どうやって遊ぶのかわからない遊具らはついに役目を終えたわけだ。
なんだかすごーくショックだった。
今度ははどういう遊具が設けられるのか、はたまた、あぶない!という理由でどんどん撤去されている遊具と同じ運命で、今後は何もなくなってしまうのだろうか。

...27年前のあの頃、川越藩主の参勤交代で整備された川越街道、みなごろしや極悪という暴走族のメインストリートだった川越街道を、ケガして痛む身体にむち打って往復約10km、石神井川が流れる台地のなかの低地から高台へ、東武練馬から武蔵野台地を一気に下って低地の徳丸が原(高島平)へ鬼プッシュして帰ったのもいい思い出だ。

豊島区池袋では、有志らがスケートパークを作ろうと奔走している。
渋谷の宮下公園のように、駒沢公園のように、もし整備されたらたくさんの人々が遊びに訪れるだろう。
当時中学生だったスケーターが親父なり、子供と一緒にすべるシーンも珍しくない。親父は80年代の当時の重いスケートボードであえて加齢に華麗にメイク、それもなかなか格好いいだろう。
かつてのあの身体の柔さはもうないので、いちばん怖いのはケガだ。
ケガの治りがもうかなり遅いし...
ま、池袋にスケートパークがぜひできて欲しいなと心から思います。

【過去記事】
オールドスクール
オールドスクール #2
生まれる
あぶないランプ
クルーザー
メイク
思いでの撤去

2015 2/5 『小銭』

消費税が8%になってからというもの、小銭が増えまくって財布がぱんぱんになっていることが多くある。
そんな人、特に男性はそういう人は多いのじゃないだろうか。
あと1-2円足らないことでどんどん小銭が増えてくる。
でも、うまく計算して小銭を出せばいいのだけど、レジでちまちましているのがとてもイヤで、結局札や100円などで払って、結局どんどん増える。
「ヘタだね~」と妻にも言われるが、ヘタなのではなく面倒なのだと反論。
女性はストアにはよく行くからそりゃうまいし、小銭をだすのが面倒ではないのだろう。

お休みの日、ランニングしたその足でスーパーに寄ることが多いけど、¥389のその表示、手がかじかんでもうぜんぜん小銭が出せなくて、レジの人に横目でチラ見のプレッシャーにちょい焦るも、ぜんぜん動かない、しまいにゃぁ薄く苦笑だ。

例えば¥498とかを小銭でぴったり払えることがある時なんか嬉しいものだ。

町の中にはたくさんの子育て地蔵尊や不動尊、馬頭観音、神社、寺がある。
正月や祭り以外はほぼ参らない人も多いし、道端に祀られている地蔵菩薩に手を合わせることもあまりないだろか。
我が子が亡くなって、地域の子供たちが安心安全に暮らせていけるようにとこの場所に地蔵菩薩を祀りました....と、そういうのを知るとなんともいえない気持ちになる。お地蔵さんの維持管理になるお賽銭を、鼻水をちょっと吸ったグローブを脱いで、ぜんぜんいうことをきかない手先で入れて、手をあわせる。

都内をあちこちランニングして、小銭はお賽銭になっていく。

2015 2/4 『JT』

ひとのときを想うJT

大切なひととき、たばこを手放してよくそのことが分って感心したコピーだ。

80年代中頃から後半、米列強からプロスケーターがたくさん来日して、池袋では大会も開かれてめちゃくちゃ盛り上がっていた。
自分も西武百貨店や、元刑務所跡地でアレが出るとか、夜な夜なハグしている恋人達が出て、そのシーンを覗くアレも出没する性霊の場サンシャインにもよく滑りに遊びにいった。
大会では、スケートをしたことがないであろう日本の大工さんが作ったでかいランプに、「ヘイッ!ここは釘が出ていて怪我するゼッ!」と、危ないとあちこち指摘し自らトンカチでリペアしてたのを憶えている。
スケーターは昔も今も手先が器用な人が実は多かったりする。

そんなスター、その中でもクリスチャンホソイというスケーターが特に好きだった。
日本だと細井さんだろう。
彼がまたすんごい高いエア(ジャンプ)をするのだ。
その当時の僕は、HOSOIモデルのデッキに乗り、ロケットエアやモスキートエアなどよくマネして飛んでいた。
西武デパートの納品ターミナルでよく滑っていたのだけど、そこにHOSOIさんがやってきてスケートして、その姿にとても興奮した。
「ハイ HOSOIさん! シェイクハンド〜」と声をかけて、クールなフェイスで握手をしてくれて、その手は実にしっとりしてて分厚かった。
自分にとって、握手をした初めてのスターだ。

ま、そんなHOSOIさんだが、紆余曲折いろいろあって...
SNSの時代、今でも彼の近況を垣間見ることができて、当時を懐かしく思いだすのです。
マッチョ姿でJTエアをきめるHOSOIさん...
昔から、なぜ欧米人はパン一(パンツ一丁)でよくランニングやスケートボード、スポーツをするのだろうかと、汗とかどうでもよくて気持ちがいいからだろうか、たぶんそうだろうな。

...真夏、パンイチで街をランニングできたらいいのにな、と、よく思う。